ドラマや映画等で活躍する女優の真野 響子さん。
母の看護生活で見えたものは?
兄弟(姉弟)の絆は昔と今でどう変わったのか?
気になる情報を調査、まとめてみました!
■真野響子のプロフィール
本名 柴本 苑子(旧姓:真野)
生年月日 1952年2月9日(68歳)
出生地 日本・東京都
身長 165 cm
血液型 A型
学歴 清泉女学院中学校・高等学校、桐朋学園大学短期大学部演劇科卒業(1973年)
職業 女優
ジャンル 映画、テレビドラマ、舞台
活動期間 1973年 –
配偶者 柴俊夫
著名な家族 柴本幸(娘) 眞野あずさ(妹) 弟(一般人)
事務所 石井光三オフィス
出典 Wikipedia
映画にドラマ、さらには舞台と、
幅広い場で活躍されている女優の※真野 響子さん。
(※尚この記事においては以降『響子』と表記)
父親の勤務先が日本航空だった関係で、幼少期は
サンフランシスコに、そして中学時代は
一時期北海道で暮らしていたこともあったとか。
個人的には一時とはいえ道民だった経緯から
一方的に妙な親近感を覚えてます笑
閑話休題。
今でこそ芸能を生業にしている響子さんですが
大学卒業を控えてドラマ出演オーディションや
劇団入団試験を受ける傍ら、
スチュワーデス(CA)の試験を受けており、
違う職業も選択肢に入れていたようです。
まあ保険を掛けるのは当然ですが当時の彼女は
「一生続けられる仕事をしたい」という観点で
演技(芸能)かCAかを天秤にかけていたそう。
結局今の道、つまりは芸能を選んだ響子さんでしたが
実はCAの試験も受かっており内定も出ていました。
その上で安定した職業を蹴って、
劇団民藝に入団し、今に至ると。
演技への特別な想いがあったのでしょう。
ちなみに、CAをもう一つの選択肢としたのは
父親が日本航空勤務だったのも
関係していたのでしょうか?
それにしても「一生続けられる仕事」として
※CAか役者をセレクトする価値観、判断基準、
(※どちらも長く続けられる仕事かというと微妙)
わりとその時点で常人離れしているというか
なるべくして芸能人になった人、という印象です。
■母の介護(看護)
上の項目でも話題に出た響子さんの父親が
2002年頃に亡くなり、さらに8年後、
今度は母親(当時80歳すぎ)の体調が突如悪化。
高齢でありながら家事の殆どをこなし、
リュックを背負い散歩するのが日課だった、
非常に元気な母親の様態の変化には
響子さんも驚いたことでしょう……。
その原因は「脳梗塞」。
すぐさま入院し、治療を受けることになりましたが
薬が増やされるもどんどん症状は重症化。
左半身もマヒしていき、
「緊急手術が必要」と言い渡されました。
しかし手術を受け入れる場合は違う病院で行う関係からか
退院する必要がある等の問題があり、
響子さん、そして妹であり同じく女優の
真野 あずささん(以降あずさと表記)と
弟さんのきょうだい三人で悩んだ結果、
手術をしないことを選び、病院から近かった
あずささんの自宅へ母親を連れて帰ることに。
試行錯誤の介護(看護)
手術をせず、自宅介護の選択肢をとったとはいえ
当然彼女たちはずぶの素人、まさに無謀でした。
布団から落下した母をどう戻していいかもわからない、
介護の難しさに直面しました。
しかし、響子さんが介護関係のパンフレットを観て
行政に電話で連絡すると
「シーツに乗せてずらすように戻せばいい」と
親切に教えてくれたそう。ここで初めて
介護に携わる人たちの温かさや優秀さに触れ
感激したと彼女は語ります。
初めての姉妹喧嘩
きょうだい三人で介護をする、介護に携わる人間の
助けも多少はあったようですがとはいえ
それは並大抵のことでは決してなく、
きょうだいは皆消耗していきました。
介護ベッドや入浴サービスの手続き、
食事作りやケアに明け暮れた結果、
あずささんの体重はひと月で4キロ減。
疲労で注意力散漫になり、きょうだい三人とも
仲良く(?)車をぶつけてしまったとか。
大きな事故にならずによかったですよね……。
そしてこのような状況だからこそ心も乱れ、
ケンカも起きたようです。このことを響子さんは
「姉の私に逆らったのが何より驚いた笑」
と語っています。喧嘩したのは初めてだとも。
普段は仲の良い姉妹が初めてともいえる喧嘩を
してしまうくらい介護というのは過酷で
人から余裕を奪うのだということですね。
余談ですが「姉の私に逆らった」というフレーズは
中々出てこない言葉ですよね笑
昔と今で変化した家族の絆
結果的には2019年4月に響子さんらの母親は亡くなられました。
脳梗塞で倒れて以後、多少回復した時期もありましたが
約10年の介護生活の中でいつ亡くなっても
不思議ではない状態が続いていたと言います。
最終的な原因は“がん”で響子さんは
亡くなるその場に居合わせることはできなかったと言いますが
その時まで精一杯向き合ってきた為、後悔はないそう。
母親へ最後に伝えることが出来た言葉は
「産んでくれてありがとう」だったとか。
妹のあずささん、弟さん、時には
母の3歳下の妹である叔母も加えて
10年間毎日分担をし、誰か一人は必ず
病院にいる母の下に通った。
母と会った人がその日の様子をメールで共有し
逐次報告を絶やさなかったと言います。
母親が入院している病院へは往復で4時間もかかり、
それを毎日、交代制とはいえ10年間も続けるのは
並大抵の苦労ではなかった事でしょう。
そうした毎日を送る中で“家族”の絆はより強く
強固なものになっていったようです。
本当に、心の底から尊敬できる方たちですね。
余談ですが、介護中も気遣ってくれた響子さんの夫で
此方も俳優の柴 俊夫さんとは流行り病の影響もあり
同じ時間を過ごすことが増えているそうですが
それ故の不満が最近溜まっているとか……笑
さて、それでは今回の記事はここまでとなります。
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それではまた次回!バイバイ!